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福岡を拠点に全国で活躍中のマニシアさんに、

JCDN佐東がインタビューをおこないました。

『マニシアさんのすべてがわかる』4部構成!

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 第1部

 

―マニシアさんの活動について教えてください。活動というか略歴的なところから。
マニシアさんがダンスを始めたのはいつからですか?
5歳です。

―それは親に連れられて?
親が日本舞踊をしていたんです。

―それは福岡で?
いえ、大分県の日田市です。すごく田舎です。
おばあちゃんも日本舞踊をしていて、日本舞踊をするようになっていたんですけど、ある時どういうわけか招待券がふっと来たんです。見に行ったら、映画の「ジャングル探偵レオ」をやってたんですよ。それで「あー映画いいなー!」と思った後にバレエがバーッと出てきて、うちの母親がその数日後、「着物を着て踊るのと、ドレスを着て踊るのとどっちがいい?」って聞いたから、「ドレスー!」って5才の私が言ったんです。それで母が「ドレスね」ということでバレエをはじめました。でもそのバレエの先生は小学校の校長先生で、バレエっていうか創作ダンスのようなものでした。

―バレエといっても創作ダンス?
校長先生で戦後子どもたちが赤線とかいう所に行かないようにって、教室を借りて“人間教育が入ったバレエ”みたいな感じでやってたんですよね。

―なんでまた赤線と子どもたちのバレエが?
なんかモダンダンスをつくった方が日田に来たらしいんですよ、名前は知らないですけど、聞いたらわかりますけど有名な方が。それで「うわーすごいなー!」と思って自分もやりたいなと東京に行って、なんとなく覚えて帰ってきて、それでなんかバレエっぽくなってきて。

―じゃあその時代だったらマーサ・グラハムか誰かかな。
いやいや違いますよ。もうなんか、舞踏みたいな人ですよ。土方巽?

―土方さんではないでしょう。
ですかね。今私の先生は83歳ですよ。なんか日本人の男性でした。

―そうか、アメリカに行って帰ってきたモダンダンスのはじめの頃の人だね。
そうですね、多分ね。それで先生もやっているうちに「これは」っていう感じで、多分やっているうちに響いたと思うんですね、そのやって何かに集中すれば、子どもたちが不良をしない、みたいな。神社の講堂だったし、その波動的にもすごく良いんですよね。古−いし。でもバレエとか言いながら裸足であったり。それでなんかこうタンバリンを使って、ポーズづくりみたいな。だから基礎とかあまりないんです“バレエ研究所”なのに。でも、そこが心地良かったんですよね。弟子たちが、もっともっと学びたいからって東京に行き、それでクラシックバレエとかを学んで帰ってくるわけですよ。私の先生は年を感じていたのか弟子たちが教え初め、そして研究所が「かたち」を学ぶ場所になってくるんですよね。でも私は他のどこにも行けないから田舎だからそこしかないから続けていましたが、足のポジション1番とか2番とかいうのも学びながら、トウシューズとかもはきました。しかし、負けたくないから一生懸命やっていくんだけど、でもやっぱり『裸足でタンバリン』っていうのがずーっと好きなんですね、やっぱり。

―でも変わってるね。変わったスタジオがはじまりだったんだね。
でもその年代ってそうですよ。

―だから今みたいなバレエ教室がカクッとしてない時だね。時代としては。
そうですよね、だから私の場合はそこで種を植えられたみたいな。
今思えば、その種があるから色んなことをやってきて、バラバラみたいだったけど、何となくまとまり今の自分があるんだなーって先生に感謝していますね。多分そこでクラシックバレエから入っていたら、私の気質からいくと人生そのものに混乱してたかもしれません。

―そうだね、抜けられなくなったかもね。
まあほら、ジャズダンスとかいうのもあったじゃないですか、流行りの中で。やっぱり自分も若い時ってそういうのに憧れるじゃないですか。それで本物を習うために東京に行ったりとか、本当に学ぶならやっぱり西洋人だなーっていうのがあって、「どうせだったらニューヨークだ」ってニューヨークに行って。

―それは高校卒業したあとに?
えーといや、短大卒業後ですね。短大に入る前は“ダンス”とか“人生”とか色々考えてはいましたが、たくさんの可能性の中からひとつ心に響いたのが「子どもが好きだなー」という気持ちがあり保育科を選択しました。

―ちなみにそれは何歳?20代半ばで?
短大在籍中、東京へ行き来があり、20歳で卒業してからですね。夏休みにアルバイトとしてその研究所で、先生たちが結婚などでいなくなったから、私がダンスを教えていたのです。でもちょっとジャズダンス的なのもありながら、みたいな。やっぱり私の先生がもう年老いてきたので、お母さんたちが若い先生を欲しいわけですよね。それで卒業とともに私が帰ってこないと子どもたちを辞めさせる、と言い出して。「まあ子ども相手だから保育士でも、ダンスの先生でも一緒かな」ということで実家に戻ってダンスを教えることを決めました。途端にうちの母が「あなた箔を付けるためにニューヨークへいってらっしゃい!」とか言い出し私は「は?ニューヨーク!?」みたいな。

―そうか、じゃあお母さんに言われて行ったんだ。きっかけ的には。
そうですね。

―日本舞踊で、やっぱり何が必要かって事をわかっていたからだろうね。もうちょっと外の血が必要だ、みたいな。

 そうですよね。それで、行ってまあ本場のジャズダンスを学びたいという目標もあったし、行ってみようかという気になり、アルビン・エイリーに入りました。そしたらもう、刺激いっぱいですよね。教えることに興味はあるけれど、私はダンサーでいたいって、まだ若いから思うわけですよ。

―アルビンエイリーにしても、本当に初期の頃ですよね。

 そうですよ。そうですそうです。

―ニューヨークって行っても今のニューヨークじゃなくて、もっと荒々しいニューヨークですもんね。
はい、もう大変な。映画の中の混乱したニューヨークに自分がいるみたいな。
それから戻ってきて、子どもたちにモダンバレエ、大人にジャズダンスの指導を始めました。本格的に身体でしっくりいき始めたのは、戻ってきてからでしたね。やっぱりその指導っていう中で学んでいくわけですよ。毎週だれかに見られるという緊張感もできてくるし、そこから自分自身の身体と向き合い伸びてきたかなーと思いますね。

―何年くらいニューヨークにいたんですか?
1回目から戻ってきてすぐ、やっぱり自分はもう一度行きたいと思い、1年後に行ったのかな。もう行き来が継続しあっという間に10年近くって感じでした。その間に長期留学も2回くらいありましたね。そのうちに振付家のルビー・シャングに出会ったんですけどね。

日本に帰ってきている間に、アメリカンダンスフェスティバルが東京でまだやっていて、日本にいる間も、レッスンしたいからという思いで東京のアメリカンダンスフェスティバルに行って、その時にルビーに初めて会ったんです。
それで私がちょうどニューヨークで留学している時に「私がニューヨークにいるよ」ということをルビーがだれかから聞いたらしく、彼女もちょうど作品に東洋人が欲しいと思っていて「是非いらっしゃい!」みたいな感じでルビーとの活動が始まったんです。

―ルビーとの活動はどのくらい続いたんですか?
5
年ぐらいかもやったかも、5年ぐらいはありましたね。

―結構、密に?

 はい。初めというのが、4回ぐらいのリハーサルでもう本番だったんですけど、そういうのって自分としては初めてだったんですよね。即興とかいうのもやり始めたばかりの時期で、これでいいのかなーという感じで作品に入れてもらったのですが、本番にパーン!って忘れてしまって、もういいやっていう自分がそこで初めて出来上がって、即興をワーッとやってしまいました。終わって多くの人からたくさん褒められて「あ、これでいいんだ」って何かが開きましたね。それまでは日本的に「これはこうじゃないといけない」という形づくられた作品っていうのが、いつしか自分の中にあり、それしか知らなかったんですね。そこの経験が、なんかこう大きなふたを開いてくれたというか。

80年代がずっとニューヨークと日本の往復ですか?その頃はまだ日田にいたんですか?

 そうですね。そうです。

―日田からニューヨークへ行ったんだ。
アハハ、すごいですよね。でも日田の人って結構すごいんですよ。私が小学校の頃のバレエの先生、もともとの先生の弟子なども現代舞踊で文部大臣賞を受賞したり、違う弟子は東京でモダンバレエ研究所を開いたり、だからもともとの先生が教えた弟子たちって、結構やってるんですよ。

―そして90年くらいに?
えーと89年に子どもを産んで、もうやっぱり子育てができないっていうので90年に帰国しました。

―戻ってきたっていうのはアメリカから日本に?
日本に。それで日田に戻ったんです。

89年に子どもが出来て、もう日本に帰ろうと?
そうですね。6ヶ月いたんですけど、ちょっと何かあった時のためとはいえ目つぶしスプレーをもっている生活は続けられないなーと思ったんです。抱っこしていては、逃げられないなと思ったんですよ、本当に怖い時代でしたから。そのまま抱えて踊れないし、クラスに連れて行くにも、片隅においておくだけでも危ない時代だったので。

ニューヨークでバンバンやってるダンサーのひとりになりたいと踊っていたのに、妊娠とともに自分自身すごく変わりました。でもやっぱり臨月ででもバンバン踊りたいという気持ちはあったんですね。そしたら同時期にルビーが妊娠していて、ルビーに公演の話があったんです。15人の妊婦ダンサーと一緒に踊るっていうのが。でもルビーはお腹の赤ちゃんを失いたくないから、代わりに私に出演したらって言ってきて「是非やらせてもらいます!」みたいな感じで即答しました。そしてリハーサルが始まり出し、人や空間の波動が全然違うことに気づいたんです。リハーサルが進んでいくうちに、ニューヨークのダンサーたちって自分が1番みたいなセンター争いがあり、気がついたら私もそうなっていとのでしょう「即興やるといつもぶつかるのは何でだろう?」と長い間感じていたんだけど、「センター争いだったか」って気づいたのはこのリハーサルに参加し始めてだったような気がしますね。自分の身体はもちろん、相手の身体を守る空気を感じたんです。


  
『生命』というものを考える表現者たちが15人集まったわけですよね。その中でアーティストとか、ほとんどがダンサーだったんですけど、偶然にもですね。「どう?」見たいな感じで5分毎に皆休みたいとか、5分毎に何か食べたいって言う人が出てくるんです。「じゃあそろそろダンスやろうかなー」という生活の中にダンスが入っているっていうリハーサルだったんです。場所が教会ということもあってなんかすごく「ダンスって神秘だなー」みたいな感覚も公演の際には味わいました。

その中に昔私がジャズダンスのクラスで会ったバリバリのジャズダンサーがいたんですよ。彼女は母親になる準備ができていたように感じだったし、その人の変化を見ると自分も変化したんだなーって、なんだかすごく自信をもらいました。後になって思えば、そこで自分が生きていく道を見つけたというか、ダンスを含めた人生で大きく変わった時期ですね。

その4日間本番をやっているうちに、5日目に出産予定日を抱えた人も出ているんですよ。私はちょうど臨月に入った時期だったのですが、公演が終わったその後に「バスタブで産んだよ」なんていう情報を聞くと、なんかもうずーっと続いている、作品が終わってそのままじゃなくて、なんか生きていくことの中にダンスが入っていて。もう「準備段階からが踊りで、終わってからも踊りだよ」という、なんかすごく違う感じでありながら実は、とても自然でうれしくなる感じがしましたね。枠があるのがダンスじゃなくて、流れがダンスという風に、その頃から変わってきましたね。


―その経験は大きいね。
大きいです、かなり。それでやっぱり自分の中で踊り続けたいっていうのがあって、福岡に帰ってきて「抱えて踊る」みたいなのが始まったんですよね。

―なぜその時、日田じゃなくて福岡に来たの?
日田に一度帰ったんですけど、国際結婚なので、主人が追いかけられるんです、子どもたちから。まだ外国人がいなくて「ガイジン、ガイジン!」って追いかけられるんですよね。だから自分たちの子どもにそういう思いをさせられたくない気持ちがあって福岡を考えました。ちょうど“ヨカトピア”っていうお祭りが福岡でやっていて、そのお祭りに行ったんです。そしたら外国人がいっぱいで、その流れでいっぱい外国人が福岡に住むようになっていて、じゃあ福岡かなーというので福岡に引っ越してきたんです。流れ、流れで。

―旦那さんはダンサー? 
はい、ダンサーでした。マーサ・グラハムの初めての相手、エリック・ホーキンズのカンパニーでした。そこで踊っていましたね。生活の為にもう英会話の先生になってしまいましたけど。でも初期は一緒に舞台で踊っていました。本番に来てくれる、彼は即興する、みたいな。でもやっぱり夫婦はケンカします。だからそれはもう徐々に一緒に踊る事がなくなってきましたね。


To be continue......

 

 

 
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第2部

―それで福岡に来て始めたのが、“ワレワレワークス”という国際ネットワークですか? 
そうですね。NYのその公演の写真も持ってきました。

 【写真を見ながらの会話】
これがニューヨークのあれ。この人がもう5日目に産まれた人で。若い私がここにいて。彼女がつくり上げた人かな。
もともとやっぱり彼女も踊りたいっていうので皆を集めたみたいで。なんかABCニュースとか出たんですよ。
こっちだ、もうほとんどおりてる状態。これはセント・マークス・チャーチですね。
ルビーとも踊った空間だったので、でもなんか彼女たちと踊ったら、うん。
この写真には少人数だけですけどたくさん妊婦たちがバーッといて。

―妊婦さんがそんなにいたらすごいね。
すごいですよね。でもこの時のやり方っていうのが、やっぱり契約書を書いて、何があっても自分で責任もちますみたいな感じの。そういう所は日本にないので、学びましたね。それで妊婦ってアートだなーというのがあって。最初に始めたママたちっていうのが・・・これがママダンスのはじまりです。

―マニシアさんの日本での活動のはじまりとしては1番初めがママダンスだったんですか?
中村大学にダンス部があって、そこに手紙を書いたんです。指導者必要ないですかーって。それで「来てください」みたいな感じになって。何でこのママたちと集まったかというと、たぶん公園で会った人たちとか、まだ日田でやってた人たちかな。ジャズダンス一緒にやってた人たちにも「発表会やりたいんだけどどうかな?」って声をかけて。




―じゃあマニシアさんの入り口はママダンスなんだね。
ママダンスなんです。「抱えて踊る、踊り続けるために抱く」みたいな。福岡は初めこれですね、ママダンス。これに戻った感っていうのは『47memories』です。すごく嬉しかったです。こう変化している中の、はじまりから輪になった!みたいに。

―そうしたら自分の子どもと一緒に踊れるから、子どもと一緒に踊りたいというのがあったの?
そうですね。でもこの頃って自分が踊り続けたいのがあって、それが50%で。あとの50%は妊婦ダンスの素晴らしさをずーっと保っておきたいという、なんか「生命と踊る」というところですかね。

―ここからどうしてワレワレワークスにいったの? 
それはですね、やっぱり子育てというのが一区切りくると、私自身でいたくなるわけですよね。
そうするとダンサーに戻りたいという自分が出てきて、それと共に「踊りに行くぜ!!」に出会うわけですよ。コンテンポラリーダンスという言葉に出会うわけです。モダンダンサーから。

―でも「踊りに行くぜ!!」が始まったのは2000年で、マニシアさんは1989年から約10年間、ママダンスとかを続けてこられていたんですね? 
3人いるからですよね。子どもが。

―なるほど!3人いるから、子どもが出来る度にママダンスをずっとやってたんだ。
そうなんです!子どもが出来る度に妊婦ダンス、ママダンス、私が妊婦じゃないと妊婦を集めてその作品の中に入れていくわけですよ。

―じゃあ10年間ママダンスというのがマニシアさんにとって、すごく時間もかけてきたところだね。
13回チャリティーショーをやったので、13年ですよね、正確にいえば。
自分の人生の中の流れにのせていくためのママダンスというか。

私の願いはセシリアの一言で「赤ちゃんも踊っている」っていうので。
「あ、その部分見てなかったなー」って。ただのオブジェとして扱っていた部分がかなりあったなーと思って。だから必死で必死で構成していくうちに、赤ちゃんのムーブメントを見逃していたなーと思いました。ワークショップをやっていくうちに、ダンスセラピストという部分はすごく私にとって役立つツールとなっているんですけど、赤ちゃんとやっていくとそれを見ているお母さんたちっていうのが癒されるし、「こうやれるんだよ」っていう提供がお母さんと赤ちゃんをつなげていく、つながるともっと作品がつくりやすいなりますね。「重いなー」じゃなくて、その重さがあるからここに移れるんだよ、みたいな。

―それで2000年に入って「踊りに行くぜ!!」とかでコンテンポラリーの方へ?
コンテンポラリーっていうのに、作品づくりってこうなんだ、みたいなことを感じました。なんとなくルビーとの思い出が身体の中にずっとあったし、自分のやり方というのにまだ出会ってなかったんですね。そうありながら「こうかな、こうかな」と感じ直し、考え直しの時に仲間が亡くなったんですよ。それでもう、バーン!!と落ち込んでいきました。踊っているつもりでも踊っていない自分がいる、みたいな。結構、だから「生命と踊る」でつながっていったのに、違う自分を見つけようとしていて「生命と踊る」に戻されたんですよね、きっと。そんな時に舞台のチラシを見たんです。ちょうど彼と踊ろうと計画していた舞台でワークショップのあと公演があるというチラシでした。それがヴォルフガングさんのWSだったんですね。そこに「あー行けって言ってるってことかな」っていう声が身体の仲で聞こえ、そこで車椅子のヒロシと出会ったんですよ。



―ヴォルフガングさんのWSでヒロシさんと出会ったんだね。それは何年のことですか? 
2005年ぐらいです。福岡でやったんですよね。
そのWSでは順番がなぜか回って来ず、ずーっと踊れないんですよ、私。4日間ぐらいあって5日目が発表会で。彼はペンをピーンって回して踊る人を決めるんです。踊る順番が全く来ないんですよ。でも何かに癒されている自分がいながら、ヒロシを見ては「目立つよねあの人」みたいな気になる感じがずっとありましたね。本番の時に、グループに分けられたんです。またペンか何かで決められた時に、ヒロシのグループに私が入ったんです。それぞれのグループの中で障がいのある人に健常者が真似をしてついていくっていうので、なんか即興やってるうちにやっぱりダンスが好きだあと感じながら、他の人はあんまりダンスやったことないみたいでしたけど、とにかくついていくっていうので皆うしろにくっついていってるんです。でも、真似をしながらも「ここにも居れる」という可能性の発見に集中している自分が心地よくって。

その本番中にヒロシが指だけでベートーベンをとても繊細に表現するんですよね。それ見た時に、私何年も回る練習をしているし、何年も足を上げる練習をしてきて、「こうかなこうかな」って訓練しながらも健康な身体もってるのに、ヒロシのように踊れない自分を感じて、すっごい大きなパンチがパーンって来た感じがしたんですよ、本番中に。それで、終わった途端に「いいんだね?」「いいんだよ」っていう言葉が身体から響いてきて、自分にOKだせる自分ができているわけですよね。

ちょうどその1週間後に平和を願うイベントみたいなのがあって、自分1人で踊るつもりだったんですけど彼とふたりで踊ってみたいと思って、「この日空いてる?」ってヒロシはしゃべれませんが誘いました。ずーっと落ち込んでたからあんまり身体使ってなかったんです。その1週間後に「ヒロシくんの心地良い空間にしたいから、1曲だけ好きなの持ってきて」って伝えていたら、ハードロックなんですよ。聞いたことのないようなそれは凄いハードロックで、でも入れない本番まで時間なかったし、練習もなくて。そして本番中にそのハードロックにのっていく自分の身体から、やっと戻ったというか。踊りの感覚ってこれだ!いいのよ!みたいな自分が出来上がって、そこから「なぜ障がいのある彼らはこうなんだろう」という探りが始まりだして。同時に、ヒロシと出会う前にダウン症の子たちとすでに出会っていたんですけど、なんで教えに行く度に私は元気になるんだろうっていう「なんで?」っていう自分への問いがずっとありました。そして同じ時期ににダンスセラピーと出会ってからも、「彼らの持っているものって、感性ってなんだろう」という事を考え続けました。それで彼らを癒すつもりが癒されながら、なんていうのかな。生きていくとか、感覚とか、色々からダンス自体ががだんだん変わってきましたね。その中で「これは何か作品をつくってみたいな」と思い始めて、ワレワレワークスという障がいのある人々を含んだグループをつくったんです。この感覚ってなんだろうっていうのを、作品にしてみたいなーということから。

―ダウン症の人とはなんで出会ったの? 
それはですね、子どもクラスの中でひとりダウン症の子がいて、その子のお母さんが熱心な方で、やっぱり普通の子どもの中に入れていきたいんですよね。普通は壁を作るんですよね、彼から。遠慮するんですかね。「いいですか?」って言われて「いいですよ」って言ってクラスに入れるとついてくるんですよ、どんどん。それで私の踊りに対するパッションが好きだから、と言ってくれて彼女がつくるダウン症のグループにも教えに来て下さい、って誘われたんですよ。普通のダンスの先生みたいな感じでそのダウン症グループの教室に行くと、まわりに来ているその美術の先生とかが全然違う感覚をもった先生たちなんですよね、書道とかにしても。なんか憧れるような。そこにこの私も選ばれたということでで「私もふさわしい何かを持っているのかなー」という気づきがあったんです。そこですよね。ただ単に走っている自分がいて、自分ってなんだろうとも振り返らずに、なんか違う空間にいれられると「あ、そうなんだ私って」って気づくというか。だからダンスセラピーの出会いもそんな感じでした。

―ダンスセラピーはどういうきっかけなんですか? 
私のWSにエリダが入ってきて、エリダはアートセラピストだったんですけど、今はもうヒーリングに走ってますけど、そのWSに入ってきて「あなたこれ発表しなさい」って、なんにも知らずにヨーロッパ・アートセラピー・カンファレンスに誘われて。彼女が私のワークについての論文みたいなのを書いてくれて、そして何にも知らずに行ったんですよね。そして4日間あるうちの4日目に私が発表するようになっていて、始めの3日間のうちに他のダンスセラピストたちの発表を見ていると「結構自分のやってきたことと似ている。じゃあ自分なりの発表をしてみよう」って発表すると、参加者皆感謝してくれて「あ、これって日本人ということがアピールのひとつになるよね」とか「私ってもっとやれるかもしれない」という感じでなんか自信をもらって、そして2年後にイギリスでのカンファレンスに行ってドーンとまた落ちるわけですよ。やっぱり知りだすと、こうじゃないといけないとか、こうなんだとかいうのが出てきて、もっと深まりたいという自分も出てくるし。イギリスでは、やっぱり言葉で説明をすぎるほど丁寧にするんですよね。セシリアが、ちゃんとやっていくというのはイギリス式ですよね。「こんな感じで」とかいう感じじゃなくって。

でも私がやりたいのは、アメリカとの始めの出会いがあるので、広い大地的な「なんでも任せなさい」という中にイギリス的的確さを合併させる、っていうのが今後の課題かなー。

―イギリスに行ったのは何年のこと?
2009年ですね。なので、すべてがこう同時進行しつつなんですが、同じ時期のリズ・ラーマンとの出会いも大きかったですね。もう私はダンスセラピストとして主に活動しようか、引退じゃないけどそんな匂い漂っていた時にリズと出会って、それがコミュニティダンスですよ。

―福岡にリズが来たのは1回目の時だよね、2005〜2006年くらい。
1回目ですね。その時に「舞台をおりちゃだめ」ってなんかすごく熱い目で言われたんですよ。そしてリズのワークの中で即興しているときに、踊る自分という真の自分にまた出会うわけですよ。セラピーとかじゃなくて。そこでやっぱり心地良さを得て、だからその後に「あ、セラピーがあっても、踊る自分があっても、まわりに何があっても、いいんじゃない」みたいに感じましたね。

イギリスに行った時に「もっとセラピー的なものを学びたい」という気持ちを持ち、帰りに読んでいた本の中で“人間回復運動”という言葉に出会ったんですね。「コミュニティダンスって全部含まれてるじゃん、セラピーもしっかり踊る場所も」「ここよ、ここよ、居心地良いのは」って心から響き、今現在ここにいるんです。だから「ダンスが好き」という一言だけでいいんだ、深いところから自分にOKを出せたのが今ですかね。そしてやっぱり人と関わる、母親になり命を大切にすることをもっと思う、みたいな流れがずーっとあった上で「人を癒したい、助けたい」という自分の中の気持ちがセラピーに対する思いで色々としてあげようとするんですけど、それを含めとにかくダンスに関わっているうちに私だけが頑張らなくても、ダンスをとにかくするだけで、人が癒され、人が何らかで元気づけ治療されている、というのがコミュニティダンスじゃないかなと思うんですね。そしてそれはこれで終わりというんじゃなくて、ずっと続いていくし、さっき言ったように支度から始まって出会いから始まって、ずっと続いていくというのがコミュニティダンスじゃないかなって。

 

To be continue......

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第3部

―今、ワレワレワークスではどういうことをやっているんですか? 
言葉にすれば『障がい者とプロダンサーのコラボレーション』なんですけど、学びあいっこ、探りあいっこというのがお互いにあり、でも健康な子どもたちも入ってくるわけですよ。アレルギーがあるから、何かいい空気のあるグループにみたいな。他ではなんか違う、みたいな。だから表現活動的なことになっていますね。最近はもっともっと幅広くなっているのかな。

最初は障がいのある子どもたちのもつ表現に触れることで、プロのダンサーが自分のフィールドに帰ったときにすごく伸びている、というのを見るのが私の楽しみで、そして彼らが感じてくれるっていう楽しみがそのプロジェクトの中心的な思いだったんですけど、そして作品を創る上で「何が出来る?」というのを問い続け、リズとの出会いで、彼女の創作法は」同じようであっても舞台が素晴らしくアートになっている。私たちの表現を本当のアートにするためにはもっと真剣に取り組まないといけない。ダンサーがダンサーでありながら人間であるという、それをアートにするには福祉じゃいけない、って感じて、すごい戦いですよね。それを仲間たちと共に学んでいくためには本当にもう舞台だけじゃなくって、皆でピクニックをするところから始まるというか。その気づきから、ある意味今はすごく良い核みたいなものができていますね。


―福祉じゃなくて芸術にもっていきたいと思ったのはどうして? 


舞台を重ねているうちですけど、2006年からワレワレが出発して、1番始めはカズキくん(ジャッキー)との出会いから、ジャッキーの頭の中にレマンツァという国があるということで、「おもしろいね。でもそれは彼の空想だけど、現実とマッチしている部分がいっぱいあるし、現実をまっすぐ見るのではなく上から見るのでもなく、ナナメから彼らは見ているな」という感じで、それを舞台で表現してみようと創った作品が今もずっと続いているんです。だから素直に、こうじゃないといけないじゃなくて、作品と共に変化し続けるワレワレワークスというのがあっていいんじゃないかなって思いますね。

福祉っていうのは彼らに付き物なんです。やっぱり障がいがあると“福祉”っていうかなり枠があるんですよね。その枠のある人たちっていうと、関わっているスタッフも結構こうじゃないといけないっていうのを決めた日本の福祉業界っていうのがあるじゃないですか。それでヒロシとの出会いで『工房まる』っていう新しい福祉に出会い、『工房まる』は「そうじゃないといけない」っていう福祉を彼ら独自の表現っていうものアートとしていて、絵なんですけど。そういうダンスのグループでありたいなという目標があるわけですよ。そして同時に枠のある福祉に、ワレワレワークスに関わっているお母さんたちからの依頼でセラピーの実践のために行ったんですが「かなり固いなー」スタッフがと感じました。「こうじゃないといけない」がいっぱいあって。なんか全然、アート発表会とかいいながら彼らの自由な表現じゃないし、自由とかいいながら画用紙だけで描かせるし。でも私はそれをやりたいんじゃない、って感じて。ニューヨークにいた頃のダンスに燃える自分と組み合わせていく、みたいな目標が見えてきて。そうするとすべてをニューヨークレベルまでもっていこうとする自分がいるんですよね。

 



そして「踊りに行くぜ!」にヒロシとデュエットで出た時もすごい挑戦で、オーディションから、私たちでいいかなー、きっといいみたいな感じで、結局出演することになり、福岡で一番おしゃれなイムズで発表するわけじゃないですか。それには、この前の『47memories』の中で2回しか練習できなくて車椅子ダンスというのを出したのと同じくらいの練習量なんですよね。彼と練習していくうちに、練習場所もないし、私が抱えないといけないし、私がおむつがえもしないといけないし。じゃあ練習するって張り切ってもお風呂の時間があるから、2時間あるうちの本当に練習したのは30分かなーみたいな感じで、いっぱい私は汗をかいているけれど、踊りで汗をかいているわけではなくて。彼の介護で汗をかきながらイムズにも連れていくわけですよ。それでもう集中しない自分がいて、もう体力的にも落ちている自分がいて、でも踊りたい自分がいて。「踊りに行くぜ!」という言わば私たちの“芸術”のステージという目標そのものでした。まず自分を出せ!みたいな気持ちが本番前にあって、もとの感覚を取り戻し、ヒロシとも上手くいき、たくさんの拍手をもらいました。

そして次にグループとしてプロレベルで舞台に出していくというのがずーっと目標で。セシリアと一緒で助成金に頼らずにグループを継続させてということで、自分のモダンバレエというものを活かしたクラスの子どもたちというのが割といっぱい生徒としているので、彼女たちとワレワレワークスをコラボレーションしていけば、舞台が成り立っていけるわけですよ。「満席に近い状態」というのが目標でありたいので、私の中では。そこはプロ意識ですよね。だからそこの中で2006年からずっとやっているんだけれども、ワレワレワークスだけで作品発表やっていけたらな、というのは目標にはありますね。多分日本の文化の中では、まだまだ時間はかかるかなーって思いますけど。でも福岡の中で劇団っていっぱいあるじゃないですか。彼らはどうにかやっていっているようだし。じゃあダンスじゃなんでやっていけないの?って思うから、そこはやっぱり目標は、実践していっている人たちがいると思うだけで可能性は与えてくれていますよね。若い人たちはすごいですね。



―『47memories』での、パパダンスはどうして始めたの? 
パパダンスの一番最初のきっかけというのは、ニュースとか新聞とか見ない自分に、公園で殺された子どもというニュースが日頃ニュースを見ない私に情報として入ってくるわけですよ。自分って結構必要なものしか入ってこないっていう信念があって、なんか「公園で殺された子ども」っていうのに、ふって耳を傾けて。なんで私はこれを聞いたんだろうって思って、この事件知りたいと思うと、実は母親が殺しているわけですよ。するとこの社会ってなんだろう、何が問題なんだろうって思い「あーコミュニケーショなのかもな」って。

それで「コミュニケーションの問題ってなんだろう」「あ、父親が話していない」というところにいきついてくるんですよ。それで父親が働いて働いて帰ってきて、単身赴任で、実家に帰ってきて、週に1回帰ってきて「お父さんくさーい」とか言われている。これってちょっと違うよね?って。自分の父親とはすっごくいい具合で結ばれてきたよねーみたいな、まあ自分の父親は今もう認知症でかすかに私のことを覚えてくれてるのみ、みたいな。すごく良い親子関係が昔はあったわけですよ。現代病みたいな、子どもたちは健康だけれども、精神的にやられてるみたいなケースがいっぱいあるんですよ。これを回復していくには、まあ“人間回復運動”ですよね、なんだろうと思うと、「あーお父さん踊らせれば」と思う、面白い自分がいるわけです。それで自分もワクワクするし。つながりのある5・6年生で子どもは成長の段階で心が変化するなーと思ったので、1人活発なお父さんがいたし・・・あ、そのお父さんはリズのいるワシントンDCについてきたんですよ。子どもと離れられないからって。その時の美術館での発表で、お父さん自身ダンスデビューしているんです。

その彼に自分の気持ちを伝えたんですね、その殺害にあった子どものことを含めて。そしたら「まあ実験であるんだったら、やってみようかな」って言って集めてくれたんです。そしたらすっごいなんか良いWSになって、目をつむって自分のお父さんの手を当てるゲームでお父さんがもう涙を流す、みたいシーンありありなの。そして「これを広げたい」という思いがあったんだけど、その年代だとやっぱり部活とか、もう6年生だったのでもう中学生に入る準備時期だったり。続けて、そして広めていくには親父の会へのアプローチも企みましたが、子どもが自立し出し、部活についていくだけのお父さんがたくさんで、それで絆を保つみたいな。親父の会のお父さんたちは何なりと関係を持とうとしているからいいんですね。

敢えて挑戦しようと別の種類のお父さんたちを集めようともしたんだけれど、流れがなく壁にぶち当たった気がした頃に、九大のパネルディスカッション“感性とは”へのパネラーのお誘いがあっんです。読売新聞の人が私の言葉の「直感にしたがって活動する」という言葉にすごく感動してくれて、それで取材をしたいということで色んなWSやってるけれども面白いWSないかな、と尋ねられ「そういえばパパを対象にしたWSって面白かったですよ」って。そしたら「それやってくれませんか?」ということで、突然だったので公募でなくバレエ教室の方々に『パパ集まりませんか?』みたいなメールを出して、結構集まってくれたんですよね。それで集まってくれたパパたちの2人が、新聞にも大きく出たせいもありダンスにもすごく感動してくれて。それで「これWSだけじゃなくて作品にもしたいな」と思い始めて、なんかグループ創るべきかなと思ったら、すぐその2人のパパたちが他のパパたちを誘ってくれて。そして作品づくり開始というわけです。あの時が6組来てくれてあとの2組は見学に来たんですけど、「子どもがやるっていうから」と、すぐその2組のお父さんたちも踊り始めましたね。後で、辞めようかと思ったこともあるけど子どもがやるっていうから続いたっていう話も聞きましたね。




一番最初は10月だったんですけど、自分の公演で踊ってもらいました。控え室でドキドキしているわけですよ、初めての舞台ですし。もうすごい硬直した顔を見て、そして舞台で1作品終えて帰ってくるとワーッて浄化されているパパたちがいるんです。「やっぱり舞台には力がある」って。まあその前から、次のカンファレンスがイタリアなので『即興とか舞台には力がある』っていうので小論文を書いたんですけど、その彼らの顔を見て「やっぱりそうだ!舞台のはちからがある」って実感しましたね。とにかく何かあるって思いますね。“ダンス”っていうのと“舞台”っていうのをもっと今後つきつめていきたいんですけどね。

そしてパパダンスというのを本当は人間回復運動でやりたい、広げたいという自分の気持ちを捨てなくてもいいけれどもそんなに大々的でなくても、小グループでも、笑顔をつくっていくことで、「この指とまれ」でとまった人数がパーフェクトで、その時の自分にとってパーフェクトな人数・サイズなんだなと思い、それに自分にOK出せることが次に向かえる自分をつくると思いました。

だから気持ちも色々編みこまれていって、楽しくて仕方ないです、今は。以前はダンスをつくろうとか、こうしたいという時点の自分だけで、苦しかったんですよね。もう途切れてしまってました。かくかくしたがたくさんあったし、今は本当にもう続いていくし、この先どうなるんだろうというワクワクがいっぱいあるし「来る人が来る」というなんかゆとりがあるというか。年の功もあるんですかね。

 

To be continue......

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第4部


―今回のセシリアとの出会いはどうでしたか?
セシリアとの出会いは、彼女がアートセラピストで、ダンスの舞台をつくり上げていって、セラピーと芸術というのを一緒にしていいんだという自信をかなり得ました。「これでいいのよ、マニシア」みたいな。リズの時にはまだまだ分けていた自分があって「ダンスってすごい、でもセラピーもある、勉強したい」というのがあったんですけど、もうセシリアは全部一緒にしてますし、彼女のみんなを導くツールというのがセラピー的であるので「そうでいいんだ」みたいな。「もう素直な自分でいいんだな」「自分は自分のありのままでいいんだな」みたいな。だからこれからスタートしていくのは、自分のやり方というのがそのままでいいんだし、というギフトをもらった感というか。

―そしたら良い出会いだったんだね。
良い出会いでした。かなり母親としてもお互い似てますし、人間的にも目指すものが似てるような。交流を続けていきたいので今回オックスフォードに行きたいなと思います。彼女のやり方を彼女の土地でやっているというのをすごく見たくて、彼女のカンパニーでやっているものも見たくて。そして私が福岡でやっているっことを彼女は一部見ているので彼女のあり方を彼女の国で見て『交流』していきたいですね。私自信は西洋の社会にすごーくこの日本的な考えをハーッと変えられたので、子どもを連れていきたいなという思いがあって、交流はリズの時とかから始まっているんですけど。子どもがアメリカに着いた途端に「においが違う」って言ったときに「これこれ!」って思ったんですよね。やっぱりそのにおいが違うっていう感覚からダンスを始めすべてが変わってくると思いました。

―子どもをもっていきたい、というのは自分の子ども?それとも今一緒にやってる生徒? 
生徒です。「この指とまれ」で誰かがツアーに参加すると思うので、向こうに行って「こんなんでいいんだ踊りって」という、今モダンバレエなので結構カタチカタチ、テクニック、みたいなのがあるんだけれども、即興ってあまりやれないんですよ子どもたちって。日本の社会の中で「恥ずかしい!」っていうのがいっぱいあって、やったらどう見られるかなという自分があるらしく。そういう子どもたちがいっぱいいるので、そうじゃないっていう社会もつくれたらと思いますね。

―さっき言っていたダンサーたちが、たとえば障がいをもった人たちとワークをすると、そのダンサーたちが変わっていくんだっていうことを実感したというのは、どういうことですか? 
感性です。感性との出会いですね。「こんな感覚」っていうのを、プロのバレリーナがほとんどなんだけれども、古い作品の中でずっと学んでいるんですよね。感性というの学ぶんです。でもやっぱり舞台をやりながら、舞台のちからで、自分自身との出会いっていうのを体験してきて素晴らしいと思うんだけれども、もっと奥深いそれぞれの感性との出会いっていうのが、障がいをもった人たちからちょっとした身体的表現で「あ、こうでるんだ」みたいな驚きがいっぱいでてくることを感じ、その驚きの中で彼女たちが私も得た「これでいいんだよ、ありのままでいいんだよ」という、OKを出せる自分との出会い。「こうじゃないといけない」っていうのが少しでも柔らかくなるといいんですよね。感性の中に自分をどっしりプロダンサーとして入れてると思うんですね、プロ意識というか。でも結構人間的な「それでいいんだよ」って言えなく自分にOKだせない自分を作り上げているんですよ。そこですかね、そこの改革。あー人間だったて心から思い出すみたいな。だからもともとの感覚が開くと「こうじゃないといけない」の中に真の自分を入れ、この四角が楕円形になる、感覚が。そうすると楕円形の感覚をもつシャープな動きとか楕円形の感覚をもつ四角い動きが何か細胞的に変わってくるんですよね。光をもつような。




―たとえば一般の人もそういう感覚を持ってるはずだし誰もが持っているはずと思うんだけれども、なぜそこで障がいをもっている人たちからその感性というものを得られるんだと思いますか?
健常者だと何かと表現のテクニックをもっているんです。偏った方法と言うか。ほとんど表現が十字にしか感じられないですよね。お決まりの縦と横。でも多くの場合、障がい者だと生活が違うのもあるんだろうけど、ここはまだ分からないんですけど多分人間的に愛をもって育てられているんです。まず母親がショックを受けて、自分の子どもが障がいをもっている、というところから母親が乗り越えるんですね。そして乗り越えると、父親かもしれないけど、乗り越えると“大きな愛”というものが芽生えて「生きるとはシンプルだ」という感覚を得て、子どもを育てる。もともとの人間のちからというのがよりついてくるんですよね。子どももその過程を肌で感じてるし。現代人には感覚というのが、言葉にはできない感覚といいながらお決まりの種を植えられているんですよね。十字の表現に慣れている私たちには障がいのある人のスパイラル的で、空間とか時間とか計算とかなくって「こうじゃないといけない」っていうのを省いたものが目新しく感じるんですかね。本当は大人になっても子どものように自由でいいのに。

ある意味ダンスWSの中で、演劇の人たちが入るのもすごく面白いんですよ。何か超えている部分がありますね。驚きがいっぱいいっぱいあって原点に戻されるっていう驚きみたいね「たしかにそうだよね!」っていう感覚はいいですね。人間を演じてるからこそ、人間のそうあるべきを知っているというか。繰り返しですね、ワレワレワークスも。だからなんか舞台裏がすっごく面白いですよ。その舞台というのを実験的に、セラピー的な効果があるんじゃないかっていうので福祉とつながって、大きなグループとコラボレーションして、もうすごく大変だったんですけど、セラピーセッションをやってきたグループを舞台にのせたんですね。そうするとやっぱり彼らが楽しむというのは、本当にメイクであったり、ちょっと髪を動かしてもらうことで、本当にその1日が彼らにとっては一生の宝物なんですね。そして楽しみがシンプルにずーっと続いているというのを知ると「舞台って面白いなー」と思います。それに関わるスタッフの人たちが「自分たちも踊りたいよね」「待つんだったら踊ればよかった」みたいなことも言ってましたし、楽しむことを彼らから学ぶんですね。

―そういう意味では、福岡に工房マルがあったというのも大きいね。
彼らの仕上げというのも、すごい目標でもありますね。ただ単に落書きをしたものも、すごーく上手にひろって、それをなんかお洒落な枠をつくっているとか、お洒落なグッズの中にチョンと入れている感覚っていうのは、これはもう舞台でやりたいよねー、ていうか隠せない部分だなーていうか。

だから「踊る工房まる」みたいな目標があったから、よかったんですよね。先にやられていたら多分挑戦したくなかったと思うんですよね。絵画でありダンスじゃなかった、というのはすごくよかったです。

―セシリアとの出会いで1番感じたことは?
障がい者との出会いですごくハイになっていた、その感性の部分を探る自分が、こだわりすぎていて健常者ということを忘れていたんですよね。そしてその中でも同じぐらい素敵なものがあるということを彼女は教えてくれて「あ、そこに視点を忘れていたな」もっと総合的なものをセシリアは知っている、と思いましたね。だから今後の自分の楽しみがもっと広がって、そこが贈り物だったんでしょうね。

―ひとつ剥くと次の皮が見えるという感じで、そこが面白いね。
だからコミュニティダンスって「何のために」って、コミュニティの活性化とかダンスを広げるためにとかじゃなくって、結局「この指とまれ」って言った人がワクワクする、そして知らないうちに活性化されて知らないうちに人が楽しくて幸せになっている、それを見て「この指とまれ」って言った人が「やってよかったな」みたいな。だからただスタートするだけで、ずっと続いているわけですよね。

―それはなんか不思議だよね。
不思議ですよね。だからどこからどう起きてきたか分からないんですけど、でも社会が生んだことですよね。社会が生んだことだから、だから面白いんでしょうね。「これをやりたい!」って言った人が始めたことじゃなくて、やっぱりクラシックバレエとかモダンダンスとかコンテンポラリーダンスもそうですけど「こういう形でありたい」といって始まったから。でもコミュニティダンスって社会が生んだことだから。コミュニティダンスじゃなくてもアートであってもビジネスであってもいいんですけど、なんか社会がつくり上げたもので、後で人間が入ってくるので、初めが個々じゃなくて終わりも個々じゃないので面白いですよね。

それを言葉に分解していったり、それをカタチにしていくというのは、結構気をつけないといけないことですよね。また枠になってくるので。たしかにこれくらいの枠を作らないと危ない部分でもありますよね。「右向いて右がコミュニティダンスです」という人も今からきっと現れてくると思うんです。




―そこでマニシアさんのいう、コミュニティダンスが枠として捉えられる危険性というのは、どういう部分ですか?
枠が核であるといいんですけど、枠がそのまま継続するという方向性があると危ないですね。というのは、社会というのはずっと変わっているじゃないですか。そして社会の中に生まれたコミュニティダンスの中に色んな人間が入りこんでやっているわけで、社会と共に変化するという可能性があるコミュニティダンスだとOKなんですけど、変化しない枠を作ってしまうと危ないっていうことですよね。だから枠というよりも核だといいんですけど。

―その「枠」というのはどういうことなんだろうね?
グループとか組織とかがあるじゃないですか。そこを柔軟にすることかな。今から先の課題として。「私たちはこのコミュニティダンスというものを形成しています。だからあなたたちは入れませんよ」みたいな雰囲気を持つこと。本当に空気の通る透明的な枠ならいいんですけど、やっぱり「コミュニティダンスとはこうです。こういうやり方があります」っていう方法論を中に入れていくのは必要性があると思うんですけど「あなたは入れませんよ」みたいなのだと、コミュニティダンスじゃなくなる。それはやっぱり社会が生んだものだから。社会は変化し続けるものだから。

―そういう意味で『47memories』は本当に広い枠でできましたね。 
最高ですよね。すごく良くできたと思う。やっぱりカタチのあるものからスタートして、経験があって、カタチのないものに向かいながら枠が核になったところですよね。

―あとその時に思いついたことをやったというよりは、それぞれの人たちがやってきた事がそこに集まったような感じがしました。やはりマニシアさんのママダンスやパパダンスというものがすごく枠を広げたし、そしてそこにシニアの人たちも入ってくる、若者もいる、という部分の広がりというのが、やはりそれまでの蓄積が幅広いというのはすごい事だなと思いました。
多分文化のレベルを見るとまだ知っている人が見に来る、というのが文化レベルなんですよね。だから課題であった集客というのはノルマを作るべきだと思います。たしかにそれはセシリアもやっているし、私もやってきた事だし。そしてノルマを作るには、という方法や人集めの方法「じゃあ、これがやりたいんだけれども、この部分を作ると人は来るよね」みたいなやり方っていうのは確かに、財団の方でももうやっていいんじゃないかなと思いますね。これだけカタチになったので。

―ありがとうございました。

END

(2012年3月 聞き手:JCDN佐東)


■プロフィール
マニシア/Manizia  振付家・ダンサー。
アメリカNYでのダンス活動後、90年に福岡に移り住み、「ダンスで国際交流」を目的にインターナショナルダンスネットワークを結成。子どもたちや親子のグループ、福岡住在外国人たちとダンス作品を創り上げ、13回に渡りストリートチルドレン救済チャリティー公演を開催する。現在は06年に結成した障がい者とプロのコラボダンスグループWaLEwalewOrks(ワレワレワークス)と共に作品発表を継続している。05年ギリシャ、09年イギリス、11年イタリアで開催されたヨーロッパアートセラピー会議でダンスの方法論の発表を兼ねたワークショップを行う。他、アメリカNY,コスタリカ、ギリシャ、イギリス、イタリアで作品発表。http://dance-samadhi.petit.cc/grape5/

 

 

 

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佐東: お二人は、地域の方たちとのダンスの活動(コミュニティダンス)が現在のように広がってくるかなり前から、地域の人との活動をされていて、今も様々な形で継続されています。それぞれの活動について、お話を伺います。





まず北村さんから。今日、北村さんの滋賀で行われているWSを見せていただきました。舞台作品やご自身のソロ作品を創る以外に、今日のような地域の人、障がいのある方などとの活動を始めるきっかけは、何だったんでしょう?

北村:まず、観客を巻き込むタイプのパフォーマンスを作品の中でやり始めたので、自分のソロ活動とすごく併走しているところがあります。 一つの事業としては、今日佐東さんが見て下さったWSが8年目なのですが、この知的障がいを持つ方たちのWSに講師として参加したのが初めてです。きっかけは、ダンサーの岩下徹さんのご紹介です。岩下さんは滋賀県の湖南病院というところでダンス療法をされていて、そのつながりで、滋賀県社会福祉事業団が発表会つきのWSを通年でやって欲しいという依頼をされたんですけど、岩下さんは、「僕は振り付けをしないので、そういうことにふさわしい人を紹介します」と言って、何故か私を紹介してくださった。その時、私は岩下さんと殆どお話しをしたことがなく、顔見知り程度だったので、未だになぜ岩下さんが私を指名されたのか分からないんですけど。でもそうやって言って下さった以上、それは有無を言わさずやろうと決めて。

WSを頼まれたとき、ダンス教室とかバレエ教室でダンスを教える経験はあったんですけど、ダンスWSとダンス教室の違いすら全然わからなかったので、実は相当どうしようかと悩みました。ただ、私自身は作品を創ってその場にいる人たちと一緒に楽しむ、みたいなことを始めていたので、そういうことだったら出来るかなと、自分がその時わかることのみで始めました。最初の頃のWSで、癲癇の発作を起こした方がいて、それを見てパニックを起こす人がいて、さらにそれを見て職員さんがウワーッて慌ただしく動く、けど事業団の担当の方には、「北村さん、続けてください。」って言われて、もう、どうなるんや〜という感じで始まったというのが、実際のところです。

その当時の初回のWS映像を、たまたま最近になって見たんですが、その時私は何を言っていたかというと、ダンスが何かとか説明できないので、「とにかく一緒にやってください」と言って動き始めた。で、誰もついてこないんです、もちろん。そういう悲壮というか、とにかくもう一生懸命やるしかない、乗った船が動いてしまった、みたいな。きっかけといっても、最初はそういう状態でした。 

ただ、なぜ引き受けられたかというと、「この人たちを舞台に上げたい!」っていう、主催者の方の強い思いがあって。ダンスをやることで何か効果が、とか、この人たちの可能性をもっと、というようなことを望まれたりするのかなと思いきや、この人たちを舞台に立たせて弾けさせてほしいっていうそれだけだったので、それなら自分自身もやってきてて、その楽しさを知っているし、難しい障がいのことはわからないけど、とにかくあのスポットライトの中へ行こうという感じで始めました。だから今も、関係としては私が彼らに何かを教えて取得してもらうというより、この日が発表だからそれに向かうぞ!って、全員で同じ方向を見て、とにかくワーっと走り続けている。そういう8年間かな。

長く続けていると、同じやるんだったらもっと楽しみたい、ええかっこしたいとか、あの人よりも長く舞台に残りたいとか、みんなそういう欲求が出てくるんですね。じゃあもっとやる?みたいな感じでやってて。最初のころは、自分の作品とWSをすごく切り離しているところがあったんですけど、続けていくうちに、全然境目がなくなってきました。今、自分自身が舞台に立つために必要だと思っていることは、全くそのまま彼らに対してもやっていますし、逆に彼らがやっていることから刺激を受けて、自分自身が舞台に立っているっていう。そういう関係にやっとなってきたのは、本当にここ2、3年かな。   


佐東砂連尾さんのきっかけというのはどういうことでしたか?

砂連尾:地域との関わりということでは、1994年に中京青少年活動センター(旧中京青年の家)で、主に初心者を対象とした、30歳までの京都市・府の在住者のWSですね。ただ、コミュニティダンスという文脈で考えると、2003年に京都府宇治市の平盛小学校で、当時その学校の教員だった糸井登先生が、運動会の組み体操を創作ダンスでやりたいと、僕と寺田みさこさんに依頼がありました。そのWSは3週間ほぼ毎日、3時間〜4時間の時間を何とかつくっていただいて行うという、結構本格的なWSでした。その平盛小学校との関わりが、僕にとっては地域やコミュニティダンスとの最初の出会いだったと思います。

佐東どうしてその依頼があったのでしょうか?

砂連尾:糸井先生が勤めてた時代は、多様な問題を抱えた地域で、かなり学校が荒れてたんですね。その状況で、学校の授業や学校の先生では救いきれない生徒に、グループでダンスの創作することを通して、なにか普段先生たちが出来ないことをアーティストにやってもらいたい、ということで私達に依頼がありました。恐らく、それは僕が主に関係性ということをテーマにしてダンスを創っていたことからの理由だったのだと思います。今振り返ってみても、その学校での体験は、僕はその後も、いくつかの地域の小学校に行きましたが、授業で本当に背後から蹴られるんじゃないか、殴られるんじゃないかっていう恐怖感を抱いたのはその学校だけでした。


佐東小学校なのにそんなに荒れているのですか?

砂連尾:体育の授業など、先生が騒いでいる生徒をガンと壁に生徒を押さえつけないと、収拾が付かないっていうことも時にはあるぐらい荒れている小学校でした。不登校だったり授業に来ても殆ど教室にいなかったりとか、また教室をずっとうろうろしてる子もいると聞いていました。

そんな状況の中、ある男の子が、僕らのWSを最初からずっと遠巻きで見ている子がいたのですが、その子に対して僕も距離をとりながら、「見ているだけでも良いよ」とか、たまに「やる?」と導きながらWSをしていたのですね。そうしたら、その彼がどんどん近づいてきてくれて、発表会前日には自分の動きを朝礼台でやってくれたんです。それを見て僕は、彼の動きを全校生徒が真似るシーンを急遽作りました。それがなされた瞬間に、糸井先生は、「あのシーンが見れた時にもうこれで充分、本当にこの企画をやって良かった。僕たちが彼らと対話しようと思っていた事が、やはりそれは言葉だけではなくて、体の動きを通してコミットすることなんじゃないか、そのきっかけを彼自身も作れたんじゃないかと思った。」ということを言ってくださいました。(3週間のWSでは、もちろんそんなに大きな問題がある学校ということまで分からないんですが、僕自身はこの体験が、コミュニティダンスというのかな、身体が持つある繋がりをつくっていくということや、言葉ではなく体の行為を通して、何か出来るんだということが、すごく大きな実感として沸いた最初の大きな仕事であり、その後この動きへと、参加させてる大きな出来事だったような気がしますね。)→僕自身はこの平盛小学校での体験がコミュニティーダンスの可能性を実感できた最初の大きな仕事であり、現在も継続しているこの取り組みへ関わる大きなきっかけだったような気がします。


佐東それは大きなことですね。その男の子がそういう風に変わってきたのは、何かきっかけがあったのですか?

砂連尾:とりあえず、無理やり参加はさせなかったんですね。彼が居やすい位置で、見ているも良し、加わるも良しという状況、環境を作りました。僕は、見ているってこと自体も充分な参加だと思っています。それと、そのWSには、寺田さん以外にその当時、非常勤で勤めていた京都造形芸術大学の学生が常時4
5人ボランティアで参加してくれました。学生は彼に限らず、他の生徒にとっても親しみやすい存在だったと思います。それからWSに参加しなくても、教室の中に彼が居やすい場所、居られる時間、誰かに寄り添えるような環境をつくっていたということも大きかったなと思います。まず自分の場所をそれぞれがつくれる環境にあって、それでWSには入りたいときに入り、抜けることも自由に設定をしておいた結果、彼自身が徐々に心を開いていき、一歩を踏み込めるような雰囲気が作れたのかなと思います。


佐東先生方の反応はどうでしたか?

砂連尾:糸井先生以外では一人協力的な方がいらっしゃったんですけども、その先生以外は殆ど、まずコンテンポラリーダンスのアーティストって何者?っていう猜疑心の目を持っていたのではないでしょうか。ただそんな状況の中、糸井先生は僕たちが気持ちよく仕事し、きちんと力が発揮できる環境をつくってくれました。それは例えば、そのWSが始まる以前から、両親への配付物に「授業でこんな事がおこります。こんな人が来ます」というのを配ってくれていましたし、また毎日帰る時間にはその日に実施したWSを写真入りで「こんなWSをしました」という稽古日誌みたいなもの結構きちんと書いて、生徒に渡してくれていました。そのことで、今いったい何が起こっているのか?ということを生徒の親が分かるような状況をつくっていました。その説明がまず親の不安を取り除きましたし、そのことで周りの先生も一応OKみたいな雰囲気作りを、糸井先生はかなりきちんと丁寧につくっていたのではないかと思いますね。


佐東先生方の反応が、終わってから少しは変わったということはありますか?

砂連尾:そうですね、やはり「やってよかった」「この子達があんなふうになるとは思わなかった」と言って下さいましたね。親御さんも、「組体操とは全然違うし、みんなバラバラな動きをしているけど、みんな楽しそうで良かった」など、肯定的な意見がすごく多かったですね。自分の子が生き生きしてるっていうことで、それまで見せた表情とは全然違うっていう意見もありました。


+++

佐東:続いて北村さんに、先ほどの続きをお聞きします。今日、実際にWSを見させていただいて、よく言われることですが、障がいを持っている人たちでも一人づつの障がいは全然違うし、一人一人の反応も違うし、ただ一時間半の中で、とにかく一人一人が反応して、元気で、混沌としている中にも何かに向かっていく力みたいなものを、すごく感じました。北村さんの心持ちも含めて、8年間続けてきたことで、何か変わってきたことというのはありますか?


北村:私自身のWS経歴と、彼らと関わっている経歴というのが、ほぼ同じぐらいの長さになります。彼らとの関わりの中で、私自身のWSが開発されてきたし、考え方もすごく変わってきたところがあると思います。まず言葉を使わずに誘導していくというスタイルは彼らとの関わりの中でできました。今日の参加者の中には、聴力のない方がいます。おそらく、殆どの人が言葉の意味を理解できないと思います。

 私、一人一人の詳しい障がいについてはほとんど知らなくて、今だにそれは知ろうとは思ってないんです。医者でも専門家でもなく、私は振付家です。さっきも言ったように、目的は彼らの障がいをなんとかしようとすることではなくて、一緒に舞台に立つことなので、人間同士の一対一の関係が作れれば、それで充分なんです。関わりの中で相手のことを知っていくということは、それは障がいのある無しに関係なく、一緒に作品を創るなら普通にすることで、必須でしょう。そういうふうになってきたときに、彼らの欲求と私の欲求が、どんどん高まっていく中で、彼ら自身に、舞台に立つんやったらこれぐらいはやりたいとか、何かこれじゃだめだみたいな、美意識みたいなのが生まれてきたんです。

毎年音楽祭をやっているのですが、3回目が終わったころに一回、私が振付のみで関わる回があったんです。全体を演出する人がいて振付だけ任されたときに、私も言われたことを彼らに伝えなくてはいけなくなって、言葉の指示がすごく増えてしまったんです。明らかに普段と違うというのを彼らはすごく感じて、パフォーマンスのクオリティとか、モチベーションがダーンと落ちたんですよ。今までしゃべらなかった人が、急に嫌な顔をするとか、あからさまにその態度や身体に、変化が見え始めた。いい時ばっかりではなく、やりにくいとか窮屈だとか、これはしんどい、というのを通過した先に、なんかあるのかな?と。それがあって、本当の意味での関係作りが始まったと思います。

彼らは特にそれについて感想を言ったり語ったりはしないんですけど、ただ欲求として「これしたい!」とか、普段のWSの中でも言うようになってきた。そうなってきたときに、それまで「これ以上は無理かな」とか、彼らのためにわかりやすくとか、しんどくないように、と思ってやっていたことを止めたんですよ。そこから彼らの変化が大きくて。 例えば、最初に始めたころって、ほとんど全員が動かなかったんです。90分棒立ち。私一人がグワーって動いていて、当時は私もアシスタントがいなかったんで、主催者の事業団の担当の方がアシスタント代わりに、「とにかく一緒に動きましょう」とやってくれて。一番大変だったのが、職員さん。送迎とか介助を理由に「何で私たちが踊らないといけないのか」と言われて、とにかくごり押しで「この部屋にいる人たちは全員踊らないとダメなんです!」って一生懸命言うんですけど、ちっともやってくれない。その職員さんたちが、自分の意思でこの人達と一緒に踊るようになっていただくのに何年かかかりました。

今日のWSではたぶん、誰が職員で誰が障がいのある人たちで、だれがこっちから連れてきたアシスタントで、という境目があまりなかったと思いますが、最初はもう、バシーって壁があったんですよ。で、例えば私が立ったり座ったりして、自分の意思でそうやらない人の手を無理やり引っ張ってさせる。職員さんにとっては、そらそうですよ、それがお仕事ですし。それで参加者が余計に嫌がるとか、とにかくぶつかりまくってたんですね、最初は。でも障がいがある人達のワークだけじゃなく、最近つくづく思うのは、難しいと言われる事は実は一つもなくて、根気がいるんだと思うんです。成立するまでやり続ける、っていう。そこで、まずしんどい思いをしなあかんというだけで、難しいと思っていることが、実は一番の障がいであり障壁なんだと思います。  

小学校に行かせていただく機会も多いのでよく耳にするのですが、例えば先生が「これは難しいですね」て言ってしまったら、難しいことになってしまうんです。言葉は良くも悪くもすごく力があって、どういう関係の誰が言っているかということは、すごく大きい。そういう意味で、言葉を使う、使わないという選択も含めて、すごくデリケートな問題。その言葉の使い方を、今関わってる知的障がいの彼らからすごく教えてもらったんです。言葉は通用しないとか、言葉がここでは要るとか。  


佐東なるほど。今は、北村さんの普通のWSでも、始める時に何も言わないですよね。今日の障がい者とのWSも同じで、北村さんが座ると、何人かが座り始めて、いつの間にか全員が輪になって座っている。これは何年目ぐらいから?

北村:ここ2〜3年かなあ。最初は私もわからなかったので、集まってください、真似してくださいって言ってたんですよ。でも3〜4年やっても何も変わらないし、棒立ちの人はずっと棒立ちだったし。でも最初は、棒立ちでもこれは何か意味があるとか、この人はこうやんね、ということを何とか見つけ出して言ってあげたりしていたんですが、本人がそれを感じてないから全く意味が無いんですよね。相変わらず変わらないな、じゃあ何が足りんのかな、何がいらんのかなということを、1人ずつ見ていて、「理由が無いんやな」ってわかったんです。必然を作らんとだめなんやと。彼らが欲しているのは、踊り方とか、こうしたらこうなる、ということではなくて、仕方なくそこに向かわないといけない理由というか、仕掛けを設定してあげることかな、と思って。それで全くしゃべらなくなったんです。そうすると、さすがにみんなも意味がわからないので、いろんな反応があって、私がしゃべれなくなったのかと、ずっと不安そうにくっついている人もいたり。職員の皆さんもよく付き合ってくれたと思うんですが、最初に座って集まるのに、1時間ぐらいかけてやったこともあるんです。とてもダンスのWSとは言えないような状況があった。それもすごく根気のいることで、「これじゃダンスの仕事を何にもしてない」ってクビになるかも知れんけど、それでもええわって覚悟を決めて、とにかくガンと座るみたいな。でも何回かやっていくうちに、なんとなく気が付いた人がやり始めて。職員さんとの関係もそこで築けたんです。職員さんには最初から、なぜこんなことをやっているのか、何をさせようとしているのかということを、言わなかったんですよ。というのは、言ってしまったら、職員さんが「こっちやで」ってサポートしちゃうでしょ。それは職員さんの役割として日常的にやってることだから。でも職員さんにもそれをさせてはいけない。そんなことに労力を費やさなくていいような状況をつくってあげたらいいんだなって。そんなこんなでつくられてきたことですね。  

 
         

 

佐東:なるほど。北村さんなりに自分のダンス
WSのスタイルをつくる上で、この8年間の彼らとの作業は大きいですね。

北村:すごく大きいですね。やはり最初は教えていましたし。「こうやるんですよ」みたいなことをやっていた。  


佐東先生だったわけですね。

北村:そうです。
今のスタイルになる過渡期のときのことですけど、癲癇を持っていて毎年のように本番直前になったら楽屋の廊下で発作を起こす方がいて。初めての本番の時とは舞台上で発作が起きたりもして、自分でもそうなったら皆に迷惑がかかるし、発作はしんどいから、やめる、やめると言いながらも、3年ぐらい参加して下さって。最後に、稽古期間中もリハも本番も、一回も発作が起きずに本番をやり遂げて、それで満足して今はやめられたんですけど。なんとなく関係で分かるのですが、最初はたぶん、やりにくさを感じてはったんですよ。でも最後、本当にのびのび自分がやりたいことをやりつくして、しかも発作もでない。そうなったときに、その人はもっとやるという発想ではなくて、もうこれで卒業、もうケリがついたと。で、本当にありがとうございました、とその方の言葉で言いに来てくれて。そのことが私にとってすごく大きなことでした。

お歳で体も大きくて、発作も持っているし、できないことがたくさんあって、でも、私よりもずっと大人だったんですよ、その方のほうが。場がそうなっていく事を、その方は見届けてくれたのかなと。で、その年の振付や課題も、私はこれ以上はできないけど、絶対これ以下にはしません、と毎回きっちりやり遂げて帰る人で。本当に最後のパフォーマンスは感動的で、一方的に何かをするっていうことでは足りないんだな、ということを、その方との3年間で教えてもらったと思います。  


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佐東:次の質問ですが、自分の作品を創る以外の、WSや他の人たちと作品を創るという経験について、

お聞かせください。

砂連尾:先ほどの京都の平盛小学校の他にも小学校に限らず中学、高校でも幾つかあります。また滞在型では、福岡ダンスジェネレイトや仙台等、JCDNの仕事でいくつかと、劇場では北九州芸術劇場で北九州に1ヶ月半ほど滞在しながら、関西では伊丹のアイホールで地域の方それぞれと作品制作を行いました。また海外でも、昨年度文化庁の在研(新進芸術家海外留学制度)でベルリンの「Theater Thikwa」という障がい者団体と、合計3、4ヶ月のお付き合いをし、その成果として帰国直前に、日本のNPO法人ダンスボックスとやっていた[循環プロジェクト]のメンバーを数名呼んで、10日間ほどのWSをしながら作品を創った経験もあります。



佐東:障がいを持っている人とのワークについて、[循環プロジェクト]の後に、ベルリンで、ワークをしたときに、何か違いや新しく発見したことがありましたか?

砂連尾
:先ず言葉が通じないということが決定的に大きかったですね。言葉が違う中でワークしたとき
に、本当に体同士での対話が切実に迫られました。ただその状況が却って、同時に言葉がなくてもこれほど通じるんだって事を改めて実感できる機会でもありました。Theater Thikwaのメンバーとのコミュニケーションの困難さがかえって、僕の身体というかダンスへの可能性をすごく感じさせてもらったように思います。日本では知的障がい者の方とWSをしていたので、彼等ともそれほど言葉によるコミュニケーションがなくても大丈夫と思っていたのですが、改めて言語、知的、身体、それぞれ全部異なる状
況の中で、どんな対話が可能なのか?それを切実に考えさせられる日々でした。

                   


もしかするとそれまでの僕は、知的に問題があってもなんとなくでも通じる日本語がまだ担保になっ
ていたのかな、という感じがするんですよ。だけど、それがドイツ人とのワークの場合、その担保が全くなくなり、一番信じえるのが自分の体の接触や身振りだったりするなと思いました。そして彼等との
WSやクリエーションが、言葉を超えた対話、その可能性というものを非常に実感できる瞬間でした。


佐東北村さんはいかがですか?

北村:WSは小学校が、北は宮城から南は徳之島まで、数えたことがないんですけど、かなり沢山。一番多いのは三重県で、35回以上行っています。三重県文化会館というところがアウトリーチをやっていて、最初は津市だけで始まったのが、県内を回りましょうということになって。もう4〜5年目ぐらいになります。小学校以外では三重県の聾学校。他に作品創りでは、「踊りに行くぜ!!」のご当地WSで、宮城えずこホール、佐世保、栗東、静岡へ行きました。など、いろいろですね。 


佐東あと、別府の現代芸術フェスティバル「混浴温泉世界」ですね。 


北村:そうですね。「オープン・ルーム」というタイトルの公演で、市民の方80人ぐらいで創りました。その時に担当した若者チームが、今は「別府レッグウォーマーず」というグループで活動していて、今年から月一で別府で公演する企画を立ち上げました。また、2010年1月に京都で砂連尾さん、山田珠実さんとやった「ダンス4オール」。ほかは、2009年秋にびわ湖ホールの企画で、20人の子供たちとの作品を戦争をテーマにして創りました。  


佐東北村さんの活動を見ていて、別府でも京都でも、出演者の中から自主的に、ひとつのダンスチームというか、ダンスのグループができていますよね、それが企画している側としてはすごく面白い展開の仕方だし、理想的だなと思います。今日のWSをアシスタントしてくれたのも、京都「ダンス4オール
」から出てきた人たちですよね。

北村:「京都フェブラリーズ」っていう、草野球チームみたいな名前をつけているんですけどね(笑)。1月に公演が終わって2月に再開して「よっしゃやるぜー!」って結成したからフェブラリーズです。今、彼らはもうアシスタントとして実働してくれていて、滋賀県内のWSや、奈良のたんぽぽの家主催のWSにも全部入ってもらっています。また、今年は栃木の宇都宮美術館から去年の「オープン・ルーム」を見て、「うちでもやりたい」という依頼を頂いたのですが、そこでもアシスタントとしてレッグウォーマーずのえびちゃんと、フェブラリーズの津田さんが参戦します。彼らは仕事としてちゃんと呼んでいただけるようになってきています。最初はボランティアだったんですけど、きちんと成果をだしてくれていて、今では無くてはならない存在になってきました。

 別府でも2009年の「オープン・ルーム」が終わった後に、トヨタの「子供とアーティストの出会い」という企画で別府市立中央小学校でWSをさせていただいた時も、100人ぐらい生徒がいたので、レッグウォーマーず全員にアシスタントで入ってもらいました。その時の活躍ぶりが認められて、福岡の小学校のWSにも呼んでいただいきました。また、福岡ダンサーズの中で、「オープン・ルーム」を最初から手伝ってくれた人たちが、そのまま出演もしてくれたんですけど、そのメンバーが今、福岡で活躍してくれている。  

                        

佐東そういう意味では各地に‘しげやんチーム’というか、一人一人がすごく気合いが入っていて、「自分たちでやるぞー!」という人たちがこれだけ出て来たというのは、面白いよね(笑)。その輪がだんだん広がってきて、別府のメンバーには千葉の人がいたり、いろんなところから集まってきてる人たちだけど、別府から始まって、それぞれがそれぞれの活動を広げていっているというのは、すごい波及効果ですね、これは。

北村:そうですよね。びっくりしますね。そんなつもりは全然なかったんですけど、味をしめていかはるんでしょうね、きっと(笑)。公演が終わっても、京都のメンバーや、びわこに出た子供らが、みんな稽古したい稽古したい、と言うから、面倒くさいので一気にうちの近所のスタジオに集まってくださいって言って、毎週稽古をやるようになったんですよ。 

佐東それはなんていうの?

北村:「草津ダンス道場」です(笑)。 どうせやるなら、ダンス教室じゃ面白くないし、発表の機会をただ待っているだけでは面白くないから、自分たちで仕掛けていこうって言って、この夏はサマースクールをやったんです。4日間かけて、朝は子供、夜は大人で、泊り込みもして作品を創って、最後は保護者に見せる、だけなんですけどね。終わったらバーベキューパーティーをして。全部、自分たちでやって。しかも、それが次の新しいメンバーを呼び寄せたり。栗東で私自身が打楽器の方と公演をするのですが、群舞のシーンを創るので、「じゃあ出ようか」「じゃあ選抜やろうぜ」みたいな。もうなんかね、スポコン漫画みたいなノリなんですよ(笑)

 来年2月に、さきほどから話に出ている知的障がいのある方たちの中からも、初めてオーディションをやることになって、年代も障がいも関係なく30人〜40人ぐらいを選ばせてもらって、それは本当に、コミュニティダンスとかコンテンポラリーダンスとか、そういうのはもう抜きにして、「とにかくお客をびっくりさせよう!」っていって、これまでの活動の集大成として一つ作品をやることになりました。今は、みんな何となくそっちに向かってワーって進んでいる感じです。 

佐東その発展の仕方が面白いね(笑)

北村:漫画みたいですよね(笑)

to be continue.......
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佐東いろいろお聞きしましたけど、最後の質問です。

お二人とも、一番初めの入口は、自分の舞台作品を創るというところからダンスの振付家兼ダンサーとして活動をしてこられて、今の活動に至っていますね。今、そういう地域の人やいろんな人と一緒に、WSをしたり作品を創るということは、ご自身のアート活動として、どういう意味がありますか?


砂連尾:僕にとってのダンスとは、異なる身体世界を持っている他者との出会いや、その中での関わりが大きなテーマとしてあります。その手がかりとして、先ずはウェルメードされた身体的テクニックを持っている人とどうコミットできるかという事から、最初は寺田みさこさんとの活動を始めたんですね。今は彼女との活動を休止していて、最近は障がいを持っている方や認知症の人と創作活動を行いましたが、テーマ自体が変わった訳ではありません。なぜなら、その両者は他者という観点からすると僕にとっては同じだからです。それまで組んでいた人が寺田さんだったから、劇場でかっちり創る作品が主だっただけであって、単純に組む人が変わることで、作品形態が変わっているだけです。

 そういった意味で、僕自身のスタンスとしては今までやってきたことと、いわゆるコミュニティダンスをやっていることに大きな変化はありません。

                     

 僕からしたら、最近組んでいる人がたまたまコミュニティーダンスの文脈にいるだけであって、ただその人達から、それは例えば障がい者の身体や、エルダーの人達の身体から「身体や生き方ってこれだけ多様で、こんなにも豊かなんだ」っていう事が見開かれ、知覚する世界がどんどん広がっていることは確かです。

 
これからも僕は、自分とは異なる文脈の人と出会い、そんな人たちとの関わりから世界を広げていくことで、生きているこの時間を豊かに過ごしたいなと思っています。そんな豊かに生きる上での手がかりとその実践が僕にとってはダンスかなと思っています。そして、固形化することなく出来るだけいろんな人と関わる中で感じた事をWSや作品にして、それを多くの人に伝え、共有していきたいなと思っています。

 
僕はダンスと出会えた事で、ダンスを始める前には想像もつかないようなユニークな人達と出会う事ができました。ダンス、もっと大きく言えばアートにはそんな世界を広げていく力や可能性があるのだと思います。だから、その出会いを異ジャンルやコミュニティーという枠だけでなく、そこをもっともっと広げて物理的にも精神的にも一所に留まる事なく、移動し続けることで僕自身の世界を広げていければと思っています。


北村:砂連尾さんの話を聞いて、これまでの活動形態が違うのでスタイルは違うのですが、やっぱりよく似たことを考えているんだなと思いました。  私自身も変わってないですね。何が変わってないかというと、客席に飛び込んで行く、あのギリギリ感。ギリギリでもう死ぬかも知れん、社会的な立場をなくすかも知れんけど飛び込んでいく、あのスリリングな感じはやっぱりすごく好きだし、そこに自分自身が生きているっていう実感をすごく感じるんです。で、それを感じられた時にしか、私のような普通の身体の人間はダンサーみたいなものにはなれない、発揮できないと感じていて。‘立っているだけで綺麗な人’ではないから、そこを追い詰めていく楽しさというかね。それは私がソロをやっている中で感じてきた、独特の世界観かも知れないですけど。 それをとことん追い求めていった結果、今はソロじゃないんですよ、手段としては。ダンスと出会ったことのない人達に、ダンスを広めてあげようという姿勢では全くなくて、「どこに斬り合い出来る相手がいるかー!」って、ずっと辻斬りしてるみたいな感じ。それで出会った人と、おおーって握手したり、うわーって抱き合ったりしているような感じなんです。本当に共演者を探し求めているんですよ。そうやって出会った人たちは、自分にとってすごく大事なパートナーだと思っているし、ダンスをやったことがない人だからここまででいい、じゃなくて、そんなの関係なしに、「この世界、ごっつおもろいねん。来いや!!」って、一緒に板の上に立って、うぉーって酒飲んで「美味い!」みたいな。 

                 

 それが結果として今、私自身の作品というものを、創り上げてきているのかなあ?という気がするんです。だからこそ、「めっちゃあなたのことを見てるし、本気で付き合うから、その代わり、私ここまでやりたいねん!」みたいなことを、どれだけ真剣に言えるかなということだと思うんですよ。それは障がいがあろうがなかろうが、年齢、経験、関係なく。それが人によって「えー、いややー」とか、「うわ、こわいー」かもしれないですけど、それでもいいから真剣に向かっていった先の、その怖いやらキモいやら、しんどいとか、全部返ってくるものっていうのが、その人との関わり方の入口になる。みんなが私のことを諸手を広げて受け入れてはくれない。それが前提だから、とにかく真剣に向かっていく。その先に、何か面白いダンス、面白い身体が、創られていくのかなあ。WSが終わっても、やり続けてる人達っていうのは、それがただ止められないんだろうなと。

 だからそういう意味では、先生みたいに何かを教えているわけでもないし、みんな一緒だよと言っているわけでもない。ただ一斉にそっちに向かって一緒に走っている感じ。今や、私にとっては、WSの場自体が作品やなっていう感覚がある。だから、パフォーマンスとWSの境目がない、参加者と観ている人の境目も分からないという、そういう世界の創り方に、すごく今は興味があります。その活路として、集団で大きな作品を創りたいっていう向きに変わってきた。それは、自分自身がソロで活動してきた間に、いろんな人たちとの出会いがずっと積み重ねられてきているからなのかな、という気がします。  

                                                                                                          
(インタビュー 2010年 夏)

Profile: 

砂連尾理 Osamu JAREO (振付家・ダンサー)
大学入学と同時にダンスを始める。91年、寺田みさことダンスユニットを結成。近年はソロ活動を展開するほか、障がい者、高齢者、子ども達との作品制作やワークショップを数多く手がける。2008年10月から1年間、文化庁・新進芸術家海外留学制度の研修員としてドイツ・ベルリンに滞在。その間、ベルリンの障がい者カンパニーTheater Thikwaの作品制作に携わる。近年の作品に「にあいこーるのじじょう」、「とつとつダンス」、「saalekashi」等がある。立命館大学、神戸女学院大学非常勤講師


北村成美 Shigemi KITAMURA (振付家・ダンサー)
6才よりバレエを始め、英国ラバンセンターにて学ぶ。「生きる喜びと痛みを謳歌するたくましいダンス」をモットーに、国内外で精力的なソロ活動を展開。2009年、別府のフェスティバル「混浴温泉世界」への参加を機に、「別府レッグウォーマーず」を結成。2010年、「ダンス4オール」出演者と共に「京都フェブラリーズ」を結成。これらご当地ダンスカンパニーの拠点・稽古場として「草津ダンス道場」を開く
 

 

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