事務局より - マニシア インタビュー

マニシア インタビュー

カテゴリ : 
アーティスト・主催者のインタビュー
執筆 : 
cdj 2012-7-24 13:00

第2部

―それで福岡に来て始めたのが、“ワレワレワークス”という国際ネットワークですか? 
そうですね。NYのその公演の写真も持ってきました。

 【写真を見ながらの会話】
これがニューヨークのあれ。この人がもう5日目に産まれた人で。若い私がここにいて。彼女がつくり上げた人かな。
もともとやっぱり彼女も踊りたいっていうので皆を集めたみたいで。なんかABCニュースとか出たんですよ。
こっちだ、もうほとんどおりてる状態。これはセント・マークス・チャーチですね。
ルビーとも踊った空間だったので、でもなんか彼女たちと踊ったら、うん。
この写真には少人数だけですけどたくさん妊婦たちがバーッといて。

―妊婦さんがそんなにいたらすごいね。
すごいですよね。でもこの時のやり方っていうのが、やっぱり契約書を書いて、何があっても自分で責任もちますみたいな感じの。そういう所は日本にないので、学びましたね。それで妊婦ってアートだなーというのがあって。最初に始めたママたちっていうのが・・・これがママダンスのはじまりです。

―マニシアさんの日本での活動のはじまりとしては1番初めがママダンスだったんですか?
中村大学にダンス部があって、そこに手紙を書いたんです。指導者必要ないですかーって。それで「来てください」みたいな感じになって。何でこのママたちと集まったかというと、たぶん公園で会った人たちとか、まだ日田でやってた人たちかな。ジャズダンス一緒にやってた人たちにも「発表会やりたいんだけどどうかな?」って声をかけて。




―じゃあマニシアさんの入り口はママダンスなんだね。
ママダンスなんです。「抱えて踊る、踊り続けるために抱く」みたいな。福岡は初めこれですね、ママダンス。これに戻った感っていうのは『47memories』です。すごく嬉しかったです。こう変化している中の、はじまりから輪になった!みたいに。

―そうしたら自分の子どもと一緒に踊れるから、子どもと一緒に踊りたいというのがあったの?
そうですね。でもこの頃って自分が踊り続けたいのがあって、それが50%で。あとの50%は妊婦ダンスの素晴らしさをずーっと保っておきたいという、なんか「生命と踊る」というところですかね。

―ここからどうしてワレワレワークスにいったの? 
それはですね、やっぱり子育てというのが一区切りくると、私自身でいたくなるわけですよね。
そうするとダンサーに戻りたいという自分が出てきて、それと共に「踊りに行くぜ!!」に出会うわけですよ。コンテンポラリーダンスという言葉に出会うわけです。モダンダンサーから。

―でも「踊りに行くぜ!!」が始まったのは2000年で、マニシアさんは1989年から約10年間、ママダンスとかを続けてこられていたんですね? 
3人いるからですよね。子どもが。

―なるほど!3人いるから、子どもが出来る度にママダンスをずっとやってたんだ。
そうなんです!子どもが出来る度に妊婦ダンス、ママダンス、私が妊婦じゃないと妊婦を集めてその作品の中に入れていくわけですよ。

―じゃあ10年間ママダンスというのがマニシアさんにとって、すごく時間もかけてきたところだね。
13回チャリティーショーをやったので、13年ですよね、正確にいえば。
自分の人生の中の流れにのせていくためのママダンスというか。

私の願いはセシリアの一言で「赤ちゃんも踊っている」っていうので。
「あ、その部分見てなかったなー」って。ただのオブジェとして扱っていた部分がかなりあったなーと思って。だから必死で必死で構成していくうちに、赤ちゃんのムーブメントを見逃していたなーと思いました。ワークショップをやっていくうちに、ダンスセラピストという部分はすごく私にとって役立つツールとなっているんですけど、赤ちゃんとやっていくとそれを見ているお母さんたちっていうのが癒されるし、「こうやれるんだよ」っていう提供がお母さんと赤ちゃんをつなげていく、つながるともっと作品がつくりやすいなりますね。「重いなー」じゃなくて、その重さがあるからここに移れるんだよ、みたいな。

―それで2000年に入って「踊りに行くぜ!!」とかでコンテンポラリーの方へ?
コンテンポラリーっていうのに、作品づくりってこうなんだ、みたいなことを感じました。なんとなくルビーとの思い出が身体の中にずっとあったし、自分のやり方というのにまだ出会ってなかったんですね。そうありながら「こうかな、こうかな」と感じ直し、考え直しの時に仲間が亡くなったんですよ。それでもう、バーン!!と落ち込んでいきました。踊っているつもりでも踊っていない自分がいる、みたいな。結構、だから「生命と踊る」でつながっていったのに、違う自分を見つけようとしていて「生命と踊る」に戻されたんですよね、きっと。そんな時に舞台のチラシを見たんです。ちょうど彼と踊ろうと計画していた舞台でワークショップのあと公演があるというチラシでした。それがヴォルフガングさんのWSだったんですね。そこに「あー行けって言ってるってことかな」っていう声が身体の仲で聞こえ、そこで車椅子のヒロシと出会ったんですよ。



―ヴォルフガングさんのWSでヒロシさんと出会ったんだね。それは何年のことですか? 
2005年ぐらいです。福岡でやったんですよね。
そのWSでは順番がなぜか回って来ず、ずーっと踊れないんですよ、私。4日間ぐらいあって5日目が発表会で。彼はペンをピーンって回して踊る人を決めるんです。踊る順番が全く来ないんですよ。でも何かに癒されている自分がいながら、ヒロシを見ては「目立つよねあの人」みたいな気になる感じがずっとありましたね。本番の時に、グループに分けられたんです。またペンか何かで決められた時に、ヒロシのグループに私が入ったんです。それぞれのグループの中で障がいのある人に健常者が真似をしてついていくっていうので、なんか即興やってるうちにやっぱりダンスが好きだあと感じながら、他の人はあんまりダンスやったことないみたいでしたけど、とにかくついていくっていうので皆うしろにくっついていってるんです。でも、真似をしながらも「ここにも居れる」という可能性の発見に集中している自分が心地よくって。

その本番中にヒロシが指だけでベートーベンをとても繊細に表現するんですよね。それ見た時に、私何年も回る練習をしているし、何年も足を上げる練習をしてきて、「こうかなこうかな」って訓練しながらも健康な身体もってるのに、ヒロシのように踊れない自分を感じて、すっごい大きなパンチがパーンって来た感じがしたんですよ、本番中に。それで、終わった途端に「いいんだね?」「いいんだよ」っていう言葉が身体から響いてきて、自分にOKだせる自分ができているわけですよね。

ちょうどその1週間後に平和を願うイベントみたいなのがあって、自分1人で踊るつもりだったんですけど彼とふたりで踊ってみたいと思って、「この日空いてる?」ってヒロシはしゃべれませんが誘いました。ずーっと落ち込んでたからあんまり身体使ってなかったんです。その1週間後に「ヒロシくんの心地良い空間にしたいから、1曲だけ好きなの持ってきて」って伝えていたら、ハードロックなんですよ。聞いたことのないようなそれは凄いハードロックで、でも入れない本番まで時間なかったし、練習もなくて。そして本番中にそのハードロックにのっていく自分の身体から、やっと戻ったというか。踊りの感覚ってこれだ!いいのよ!みたいな自分が出来上がって、そこから「なぜ障がいのある彼らはこうなんだろう」という探りが始まりだして。同時に、ヒロシと出会う前にダウン症の子たちとすでに出会っていたんですけど、なんで教えに行く度に私は元気になるんだろうっていう「なんで?」っていう自分への問いがずっとありました。そして同じ時期ににダンスセラピーと出会ってからも、「彼らの持っているものって、感性ってなんだろう」という事を考え続けました。それで彼らを癒すつもりが癒されながら、なんていうのかな。生きていくとか、感覚とか、色々からダンス自体ががだんだん変わってきましたね。その中で「これは何か作品をつくってみたいな」と思い始めて、ワレワレワークスという障がいのある人々を含んだグループをつくったんです。この感覚ってなんだろうっていうのを、作品にしてみたいなーということから。

―ダウン症の人とはなんで出会ったの? 
それはですね、子どもクラスの中でひとりダウン症の子がいて、その子のお母さんが熱心な方で、やっぱり普通の子どもの中に入れていきたいんですよね。普通は壁を作るんですよね、彼から。遠慮するんですかね。「いいですか?」って言われて「いいですよ」って言ってクラスに入れるとついてくるんですよ、どんどん。それで私の踊りに対するパッションが好きだから、と言ってくれて彼女がつくるダウン症のグループにも教えに来て下さい、って誘われたんですよ。普通のダンスの先生みたいな感じでそのダウン症グループの教室に行くと、まわりに来ているその美術の先生とかが全然違う感覚をもった先生たちなんですよね、書道とかにしても。なんか憧れるような。そこにこの私も選ばれたということでで「私もふさわしい何かを持っているのかなー」という気づきがあったんです。そこですよね。ただ単に走っている自分がいて、自分ってなんだろうとも振り返らずに、なんか違う空間にいれられると「あ、そうなんだ私って」って気づくというか。だからダンスセラピーの出会いもそんな感じでした。

―ダンスセラピーはどういうきっかけなんですか? 
私のWSにエリダが入ってきて、エリダはアートセラピストだったんですけど、今はもうヒーリングに走ってますけど、そのWSに入ってきて「あなたこれ発表しなさい」って、なんにも知らずにヨーロッパ・アートセラピー・カンファレンスに誘われて。彼女が私のワークについての論文みたいなのを書いてくれて、そして何にも知らずに行ったんですよね。そして4日間あるうちの4日目に私が発表するようになっていて、始めの3日間のうちに他のダンスセラピストたちの発表を見ていると「結構自分のやってきたことと似ている。じゃあ自分なりの発表をしてみよう」って発表すると、参加者皆感謝してくれて「あ、これって日本人ということがアピールのひとつになるよね」とか「私ってもっとやれるかもしれない」という感じでなんか自信をもらって、そして2年後にイギリスでのカンファレンスに行ってドーンとまた落ちるわけですよ。やっぱり知りだすと、こうじゃないといけないとか、こうなんだとかいうのが出てきて、もっと深まりたいという自分も出てくるし。イギリスでは、やっぱり言葉で説明をすぎるほど丁寧にするんですよね。セシリアが、ちゃんとやっていくというのはイギリス式ですよね。「こんな感じで」とかいう感じじゃなくって。

でも私がやりたいのは、アメリカとの始めの出会いがあるので、広い大地的な「なんでも任せなさい」という中にイギリス的的確さを合併させる、っていうのが今後の課題かなー。

―イギリスに行ったのは何年のこと?
2009年ですね。なので、すべてがこう同時進行しつつなんですが、同じ時期のリズ・ラーマンとの出会いも大きかったですね。もう私はダンスセラピストとして主に活動しようか、引退じゃないけどそんな匂い漂っていた時にリズと出会って、それがコミュニティダンスですよ。

―福岡にリズが来たのは1回目の時だよね、2005〜2006年くらい。
1回目ですね。その時に「舞台をおりちゃだめ」ってなんかすごく熱い目で言われたんですよ。そしてリズのワークの中で即興しているときに、踊る自分という真の自分にまた出会うわけですよ。セラピーとかじゃなくて。そこでやっぱり心地良さを得て、だからその後に「あ、セラピーがあっても、踊る自分があっても、まわりに何があっても、いいんじゃない」みたいに感じましたね。

イギリスに行った時に「もっとセラピー的なものを学びたい」という気持ちを持ち、帰りに読んでいた本の中で“人間回復運動”という言葉に出会ったんですね。「コミュニティダンスって全部含まれてるじゃん、セラピーもしっかり踊る場所も」「ここよ、ここよ、居心地良いのは」って心から響き、今現在ここにいるんです。だから「ダンスが好き」という一言だけでいいんだ、深いところから自分にOKを出せたのが今ですかね。そしてやっぱり人と関わる、母親になり命を大切にすることをもっと思う、みたいな流れがずーっとあった上で「人を癒したい、助けたい」という自分の中の気持ちがセラピーに対する思いで色々としてあげようとするんですけど、それを含めとにかくダンスに関わっているうちに私だけが頑張らなくても、ダンスをとにかくするだけで、人が癒され、人が何らかで元気づけ治療されている、というのがコミュニティダンスじゃないかなと思うんですね。そしてそれはこれで終わりというんじゃなくて、ずっと続いていくし、さっき言ったように支度から始まって出会いから始まって、ずっと続いていくというのがコミュニティダンスじゃないかなって。

 

To be continue......

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